広~く浅~く様々な事象を取り上げてみちゃったりしてます。 つまんなかったらごめんよぉ

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1月27日はモーツアルトの誕生日だったそうです。
今年で250年目となる今回、各地で250年祭が行われてるそうです。
と、ニュースでチラッと見て、興味が沸きましたので
早速調べて見ました!。
モーツアルト
父レオポルド・モーツァルト、母アンナ・マリアの7番目の子
としてザルツブルグで誕生する。この時、父は37歳の宮廷音楽家であった。


1756年 00歳 1月27日 ザルツブルグにて誕生
1757年 01歳
1758年 02歳
1759年 03歳
1760年 04歳
1761年 05歳
1762年 06歳 ミュンヘンに最初の演奏旅行。
1763年 07歳 家族とともに大規模な演奏旅行。
1764年 08歳
1765年 09歳 天然痘に感染し、病気に苦しむ。
1766年 10歳
1767年 11歳
1768年 12歳 
1769年 13歳 ザルツブルク宮廷楽団の無給のコンサートマスターとなる。
1770年 14歳 ミラノのレジオ・ドゥカール劇場で大成功。
1771年 15歳 政治的変化で演奏旅行が厳しくなる。
1772年 16歳 正式にザルツブルク宮廷楽団のコンサートマスターとなる。
1773年 17歳 マカルト広場8~9番地にあるタンツマイスターハウス(舞踏教師の家)に引越し
1774年 18歳 ザルツブルク以外での職探しを本格化
1775年 19歳
1776年 20歳
1777年 21歳 ザルツブルクの大司教と確執。
1778年 22歳 母がパリ演奏旅行中に死去。
1779年 23歳 宮廷オルガニストとして再び大司教に仕えることになる。
1780年 24歳 ザルツブルグの大司教の帰着命令に逆らいウィーンに住む。
1781年 25歳
1782年 26歳 コンスタンツェ・ウェーバーと結婚。
1783年 27歳
1784年 28歳
1785年 29歳
1786年 30歳
1787年 31歳 数多くの旅と社交上避けられない様々な支出のため、借金がかさむ。
1788年 32歳
1789年 33歳
1790年 34歳
1791年 35歳 享年35才、死因は粟粒熱とされています。
全楽曲


簡易版です。。。
詳しいのは下の方に載せておきました。
見ればわかると思いますが、すごいことになってるので。。。(苦笑い

35歳で亡くなってたのですねぇ。
そして、色々わかってきてるようですが

なぜ貧乏だったのか?とかまだまだホントのとこは
よくわかってないようですね。

というか、諸説あるらしいです。
無駄使い大好きな性格だったとか、ギャンブル好きだったとか。

他にもモーツァルト頭蓋骨論争
とかあったり。

天才と呼ばれる所以は、下書きをしないという点にある。
モーツァルトが非凡な記憶力を持っていたのは多くの記録からも確かめられているが、
自筆譜の中には完成・未完成曲含めて草稿及び修正の跡が
多く発見されているというのが事実である。

まあ、エピソードに事欠かないわけです。

俗にいう二種類の天才の代表
モーツァルトは一度で曲を完成させる。
ベ-トベンは何度も何度も修正を加えて曲を完成させる。

というのを、よく聞かされたものです?。

とまあ、なんのまとめにもなってない〆です。。。(苦笑い
ん~、最近まったく。まとめきれない話ばかりで反省しきりです。。


クラッシック全般 - 音楽
してくれると、励みになります。


で、ちょと横道にそれて
ヴァイオリンの歴史もまたおもしろいです。
ヴァイオリン

ヴァイオリンの起源については諸説あるが、はっきりしたことはいまだにわかっていない。
そもそもヴァイオリン黎明期である16世紀当時において「ヴァイオリン」や「ヴィオール」
という言葉が何を指すのかに関してもあいまいな点がある。
祖先としてはキタラ、ルバーブ、レベック、リュートなどが考えられているが、
何らかの形でヴィオール属の影響を受けている可能性が高い。

ヴァイオリンが世に登場してきたのは16世紀初頭と考えられている。
現存する最古の楽器は16世紀後半のものだが、それ以前にも北イタリアをはじめ
ヨーロッパ各地の絵画や文献でヴァイオリンが描写されている。

最初期の製作者としてはアンドレア・アマティ、
ガスパロ・ディ・ベルトロッティ(ガスパロ・ダ・サロとも)、
ガスパール・ティーフェンブルッカーが有名である。当時は舞踏の伴奏など、
世俗音楽用の楽器として考えられていた。

17~18世紀にはニコロ・アマティ、ヤコプ・シュタイナー、
アントニオ・ストラディヴァリ、グァルネリ一族など著名な製作者が続出した。
特に卓越していたのがストラディヴァリで、
ヴァイオリンの形態は彼の研究によってほぼ完成に至る。


ストラディヴァリは結構、聞いたことがある人も多いですね。
オークションとかで数億円で競り落とされたりしてて。
ストラディバリウス

ストラディバリが製作したヴァイオリンは約1,200といわれ、そのうち約600が現存する。
ヴィオラやチェロについても約50製作しており、
いずれも弦楽器の代表的な名器として知られる。

ストラディバリが製作した弦楽器には、
“Antonius Stradivarius Cremonenfis”というラベルが貼られているところから、
ストラディバリウス、あるいは省略してストラドなどと呼ばれる。

イタリア人の名前としては「ストラディバリ(Stradivari)」であるが、
当時の職人は自分の作品にプライドを込めてラテン語表記の
「ストラディバリウス(Stradivarius)」と書き込んだのである。

当時から300年経った現在でも、ストラディバリの作品を超えるヴァイオリンは
製作されておらず、現代科学を持ってしても、
音色の秘密はいまだに解明されていないと言われる。

制作時に最高級の材料を使い、最高の工作精度で作られたうえ、
木材の経年変化による音響変化で最高の音色になっているのである。


って、ながー!
ここまで読んでくれてるひとには感謝です。

そして問題のこれ。。↓



やや詳しい歴史

1756年 - (0歳) ザルツブルクに生まれる。
1759年 - (3歳) クラヴィーア(ピアノの前身)を弾き始める。
1761年 - (5歳) 最初の作曲を行う(『アンダンテ ハ長調 K.1a』)。
1762年 - (6歳)
1月 ミュンヘン旅行。
9月 ヴィーン旅行(シェーンブルン宮殿にてマリア・テレジア御前演奏。
7歳のマリア・アントーニア(後のマリー・アントワネット )にプロポーズしたという。)。
1763年~1766年 - (7~10歳) パリ・ロンドン旅行。
1767年~1769年 - (11~13歳) 第2回ウィーン旅行。
オペラ『ラ・フィンタ・センプリーチェ』上演。
1769年~1771年 - (13~15歳)
第1回イタリア旅行。
父と共にミラノ、ボローニャを経てローマへ。システィーナ礼拝堂では、
門外不出の秘曲とされていた、ドメニコ・アレグリ
(Domenico Allegri, 1587年?-1629年)の9声部の『ミゼレーレ』を聴き、
暗譜で書き記したという逸話が残されている。
1771年 - (15歳) 第2回イタリア旅行。セレナード『アルバのアスカニオ』ミラノで上演。
1772年~1773年 - (16~17歳) 第3回イタリア旅行。ミラノでオペラ『ルチオ・シルラ』上演。
1773年 - (17歳) 第3回ヴィーン旅行。
1774年~1775年 - (18~19歳) 第2回ヴィーン旅行。オペラ『偽りの女庭師』上演。
1777年 - (21歳)
ザルツブルクでの職を辞しミュンヘン、マンハイムへ
就職旅行したが成果無し。マンハイムでは、マンハイム楽派の影響を受ける。
1778年 - (22歳)
マンハイム→パリ旅行。アロイジア・ヴェーバーに恋愛。
パリでの就職も不首尾に終わる。
7月3日、同行した母パリで死す。帰路ミュンヘンでアロイジアに失恋。
1779年 - (23歳) ザルツブルクに帰郷。ザルツブルク宮廷にオルガニストとして復帰。
1780年 - (24歳)
ミュンヘンに旅行し、オペラ『イドメネオ』上演。
女帝マリア・テレジア崩御。
1781年 - (25歳)
6月、ザルツブルク大司教ヒエロニムス・コロレドとの衝突、解雇。
そのままヴィーンに定住を決意。
1782年 - (26歳)
オペラ『後宮からの誘拐』をヴィーンで初演(7月)。
8月3日 父の反対を押し切りコンスタンツェ・ヴェーバー
(Constanze Weber, 1762年-1842年)と結婚。
彼女はかつて片思いの恋をしたアロイジアの妹で、
『魔弾の射手』の作曲家カール・マリア・フォン・ヴェーバーの従姉である。
このころから自ら主催の演奏会用にピアノ協奏曲の作曲が相次ぐ。
1783年 - (27歳)
ザルツブルクに帰郷。『ミサ ハ短調 K.427(417a)』を上演。
6月長男誕生するもザルツブルク旅行中に死亡。
1784年 - (28歳)
第2子カール・トーマス(1784年-1851年)誕生。
フリーメイソンに入会(12月)。以後その思想に影響を受けたとみられる。
1785年 - (29歳)
父レオポルトがヴィーン訪問。息子の演奏会が盛況なことを喜ぶ。
音楽の父、ハイドンと会い、ヴォルフガングの才能について賛辞を受ける。
ヴォルフガング、弦楽四重奏曲集をハイドンに献呈(「ハイドン・セット」)。
1786年 - (30歳) オペラ『フィガロの結婚 K.492』をブルク劇場で初演。
1787年 - (31歳)
「フィガロの結婚」がプラハで大ヒットしたため同地訪問。
4月 - ベートーヴェンがモーツァルトを訪れる
10月 - 新作の作曲依頼を受け、オペラ『ドン・ジョヴァンニ K.527』を作曲、初演。
5月 - 父レオポルト死去(5月)。
このころから借金依頼が頻繁に行われる。
1788年 - (32歳) “3大交響曲”(交響曲第39番~第41番)を作曲。
1789年 - (33歳) ベルリン旅行。
1790年 - (34歳)
オペラ『コジ・ファン・トゥッテ K.588』初演(1月)。
2月、皇帝ヨーゼフ2世が逝去し、レオポルト2世即位。
フランクフルトで行われた戴冠式に同行。
同地で私費を投じてコンサートを開催し、
ピアノ協奏曲26番ニ長調「戴冠式」同19番ヘ長調「第二戴冠式」などを演奏するも、
観客は不入りだった。
1791年 - (35歳)
7月 第6子フランツ・クサーヴァー(1791年-1844年)誕生。
最後のピアノ協奏曲第27番変ロ長調作曲(1月)
プラハで行われたレオポルト2世のボヘミア王戴冠式に同行、
オペラ『皇帝ティートの慈悲 K.621』初演。
9月、シカネーダー(1751年-1812年)の一座のために
ジングシュピール『魔笛K.620』を作曲、初演。
健康を崩し、11月から悪化。7月にフランツ・ヴァルゼック伯爵から
匿名で依頼を受けた『レクイエム K.626』の作曲を終えることなく、
12月5日午前1時ころ35年の生涯を終えた。死因については毒殺説、
謀殺説などが語られているものの確証はなく、
あるモーツァルト研究家によるとその症状から見て
「リューマチ性炎症熱」だったのではないかと推定されている。
最低料金(あくまで庶民扱いであった)の葬儀後、
郊外のセント・マルクス墓地に埋葬された(とされる)が、
誰も同行しなかったため、どこに埋葬されたのか不明である(後述)。



まとまらなーい。。
いやはや。。。。。

ま、ここまで読んだ方は、さすがにいないでしょう。。。
というか、ほんとごめんなさいです。



そしてこれ。。
一度目のまとめきれなかったもの。。。(苦笑い

二度目のものとは、若干、話が違うので
スペシャルデラックススーパー暇な方は、楽しめるかも?

さらに詳しい歴史
 
1756年 00歳 1月27日 ザルツブルグにて誕生
1757年 01歳
1758年 02歳
1759年 03歳
1760年 04歳
1761年 05歳

ヴォルフガングが最初の作品を作曲。
9月1日、ラテン語の学校劇「ハンガリー王ジギスムント」の上演に際し、
ヴォルフガング=アマデウス・モーツァルトは踊り手の一人として観衆の前にデビュー。

モーツァルトがザルツブルク時代に作曲した最も初期の作品には、
以下のものが含まれます。大司教の宮廷のため作曲された
宗教的楽劇「第一戒律の責務」KV35(1767年)、
ザルツブルク大学大講堂のため作曲された学校用歌劇
「アポロとヒアキントス」KV38(1767年)、大学付属教会のために作曲された
「ミサ・ブレヴィス」ニ短調KV65(または61a、1769年)、

更に「ドミニクス・ミサ」と呼ばれるハ長調ミサKV66(1769年)です。
この「ドミニクス・ミサ」は、モーツァルトの幼友達で後に
サンクト・ペーター修道院の院長となったカエタン=ルペルト・ハーゲナウアーの
最初のミサのため作曲されたものです。
 
1762年 06歳 
1月12日、父レオポルトは、彼の「神童たち」を連れて最初の演奏旅行に出発しました。
目的地ミュンヘンには3週間滞在、ヴォルフガングと姉のナンネルは、
バイエルン選帝侯マキシミリアン=ヨーゼフⅢ世の前で、御前演奏しました。

モーツァルトは、その生涯に3720日、旅の途上にあったことが確認されています。
これは彼の生涯の三分の一に当たります。道中の困難にも拘わらず、彼は旅行が好きでした。

更に1762年の秋、モーツァルト親子はウィーンへ向かいました。ここで10月13日、
マリア=テレジア女帝に謁見、御前演奏を行いました。「ヴォルフルは女帝の膝に乗り
、彼女の首に腕をまわして、とても優雅にキスをしました」と、父レオポルトは、
家主であるハーゲナウアー宛ての手紙で、誇らしげに報告しています。
      
1763年 07歳 
一行がウィーンから戻って間もない1763年2月28日、父レオポルトは、
当時の大司教ジギスムント=クリストフ・フォン・シュラッテンバッハ伯爵から、
宮廷の副楽長に任命されました。ジギスムント大司教は開放的な人柄で、
モーツァルト親子の演奏旅行をも大々的に支援しました。

大司教の誕生日に際して、ヴォルフガングは音楽家として初めて、
聴衆の前に登場しました。

1763年夏、父レオポルトは家族とともに大規模な演奏旅行に出発しました。
これは西ヨーロッパ各地を回るもので、途中レオポルトの故郷であるアウグスブルクでも
コンサートを行い、更にフランス、イギリス、オランダの各地で、コンサートが行われました。

パリ滞在中、ヴォルフガングの作品が初めて楽譜として出版されました。
これらの作品は、ヴィクトワール・ド・フランス夫人に捧げられた
バイオリン・ソナタKV6と7、更にアドリエンヌ=カテリーヌ・ド・テッセー伯爵夫人
(結婚前の姓ド・ノエイエ)に捧げられたバイオリン・ソナタKV8と9です。
神童の登場は、至るところでセンセーションを巻き起こし、絶賛を集めました

1764年 08歳
4月23日、モーツァルト一家はロンドンに到着しました。
4回の公開コンサートに加え、神童たちは繰り返し、国王ジョージⅢ世と
王妃ソフィー=シャルロッテの前で御前演奏しました。

王妃はメクレンブルク=シュトレーリッツの姫君で、ヴォルフガングは彼女に、
6曲のヴァイオリン(またはフルート)・ソナタKV10~15を献呈しています。

一家が故郷へ戻って間もなく、次の演奏旅行が取り沙汰されるようになりました。
事実、11ヵ月ザルツブルクに留まった後、彼らはウィーンへと旅立ちました。

当時ウィーンでは天然痘が流行中だったため、
彼らは難を避けてブリュン(ブルノ)とオルミュッツ(オロモウツ)へ向かいました。
それでも子供たちは感染し、病気に苦しみました

1765年 09歳 天然痘に感染し、病気に苦しむ。
1766年 10歳
1767年 11歳
1768年 12歳 
1月末、皇帝ヨーゼフⅡ世からの励ましで、モーツァルトは
オペラ・ブッファ「偽の女庭師」KV51(46a)の作曲に取り組みました。

この作品は、ザルツブルクの若き作曲家に対する劇場関係者の陰謀に妨害され、
おそらく1769年5月になって、彼の故郷の町で初演されました。

1769年 13歳 
ザルツブルクで過ごしている間に、
モーツァルトはザルツブルク宮廷楽団の無給のコンサートマスターとなりました。

12月13日、父と息子は、ブレンナー峠を越えてイタリアへ向かう困難な旅に出発しました。
彼らはヴェローナ、ミラノ、フィレンツェ、ローマ、ナポリに滞在、
ヴォルフガング少年は至るところで大成功を収めました。

1770年 14歳 
イタリアにおける最初のコンサート開催地はヴェローナでした。
ミラノでモーツァルトは、1770~1771年のカーニバル・シーズンのため、
オペラ作曲を依頼されました。

これがオペラ・セリア「ポントの王ミトリダーテ」KV87(74a)で、
この作品は1770年12月26日、ミラノのレジオ・ドゥカール劇場で初演され、
大成功を収めました。14才の天才作曲家は指揮も担当しました。

ボローニャでモーツァルトは、イタリアの名高い音楽理論家
ジョヴァンニ=バッティスタ・マルティーニ神父と会見しました。
神父はモーツァルトに、その類稀な音楽的能力に対する証明書を与えています。

ローマでは、枢機卿秘書パラヴィチーニ伯爵の手を通してローマ法王クレメンスXIV世から
「黄金の拍車の騎士」の勲章が授与されました。これは法王から授けられる最高の勲章で、
モーツァルトの前には、オルランド・デ・ラッソのみが、この勲章を受けています。

ザルツブルクへ戻る途中の1770年10月10日、モーツァルトはボローニャで試験を受け
「アカデミア・フィラルモニカ」の会員となりました。

1771年 15歳 
1772~1773年のカーニバル・シーズン、ミラノでのオペラ上演
(「ルーチョ・シルラ」KV135)を最後に、父と息子はイタリアを去り、
1771年3月28日ザルツブルクに帰着しました。

その後138日間ザルツブルクに留まった父子は、再びミラノへ出発しました。
ミラノでは、フェルディナント大公とモデナのエステ家の姫君
マリア=リッチャールダ=ベアトリーチェの婚礼が行われ、1771年10月17日には、
モーツァルトのオペラ「アルバのアスカニオ」KV111が上演されました。

1771年12月15日父子はザルツブルクへ戻りました。その翌日、
モーツァルト父子の主君であり後援者であった
ジギスムント=クリストフ・フォン・シュラッテンバッハ伯爵が世を去りました。

これを受けて新たに大司教となったヒエロニムス・コロレド伯爵のため、
モーツァルトの劇的セレナータ「スキピオの夢」KV126が上演されました。

これは大きな政治的変化をも意味していました。ヒエロニムス・コロレド大司教は
非妥協的で厳格、文化の面でもオープンな人柄ではありませんでした。このことは、
その後のモーツァルト父子の旅行日程にも明確に反映しています。

1772年 16歳
モーツァルトは正式にザルツブルク宮廷楽団のコンサートマスターとなりました。

3回目のイタリア旅行は、ミラノのレジオ・ドゥカーレ劇場における「ルーチョ・シルラ」
上演だけが目的のはずでしたが、レオポルトの病気のためと称して、
父子は予定より遅れてザルツブルクに戻りました。

1773年 17歳
モーツァルト一家は、今日のマカルト広場8~9番地にある
タンツマイスターハウス(舞踏教師の家)へ引き移りました。

3回目のウィーン旅行(1773年7月14日~9月26日)と
ミュンヘン旅行(1774年12月6日~1775年3月7日)の甲斐もなく、
若きモーツァルトのためのザルツブルク以外での職探しは成功しませんでした。

1774年 18歳
ミュンヘン演奏旅行(12月6日~3月7日)

1775年 19歳
1776年 20歳
1777年 21歳
8月、モーツァルトは「新たな幸運を求めるべく」役職解任を願い出ました。
父の新たな旅行休暇願いは、1777年9月末、大司教から却下されました。

このため、モーツァルトは母とともにマンハイムとパリへ向けて出発しました。
この旅行でも職場を得る所期の目的は達せられませんでした。

父の旅行休暇願いがヒエロニムス大司教から却下された後の1777年9月23日、
午前6時にモーツァルトは母アンナ=マリアとともに
マンハイム・パリへの旅に出発しました。

1778年 22歳
7月3日、モーツァルトは大きな不幸に見舞われました。
母がパリで世を去ったのです。1779年1月、母を失い、
職も得られなかったモーツァルトは、一人失意のうちにザルツブルクへ戻りました。

この時代の大きな作品としてはニ長調の交響曲KV297(300a)が残るのみです。
もうひとつの作品「管楽器のためのシンフォニア・コンチェルタンテ」KV297Bは紛失され、
今日には伝えられていません(資料9参照)。

1779年 23歳
1月17日、モーツァルトは宮廷オルガニストとして、
再び大司教に仕えることになりました。

1780年 24歳
長らくザルツブルクに留まった後モーツァルトは1780年末、
オペラ・セリア「クレタの王イドメネオ」KV366上演のためミュンヘンを訪れ、
更に1781年3月12日、大司教の命でウィーンへ向かいました。
ウィーンでモーツァルトは、様々な人たちと知り合うようになりました。

また、マンハイムで知り合ったウェーバー家の人々とも再会しました。
ウェーバー家はウィーンに移住していたのです。

モーツァルトはザルツブルグの大司教の帰着命令に逆らい、
逆にもう二度と戻らないと脅しました。

モーツァルト家の近くには1775年に建設された宮廷劇場があり、
一家は定期的に演劇鑑賞に出かけました。ここで一家は、
客演中の演劇グループと知り合うようになりました。

1780年9月17日にはエマヌエル・シカネーダーのアンサンブルが
初めてザルツブルクに登場しています。後年、
シカネーダーはモーツァルトのリブレッティストとなりました。

同年11月5日、モーツァルトは我が家を去り、
オペラ「イドメネオ」KV366完成のためミュンヘンへ向かいました。
初演の客席には、父レオポルトと姉ナンネルの姿も見られました。

1781年 25歳 
大司教との衝突が繰り返され、1781年6月8日には、
ザルツブルク領主と作曲家の間の最終的決裂に至りました。

モーツァルトは作曲家としてウィーンに地歩を固めようと試みました。
このため彼は、オペラ作曲家、自作を演奏するピアニスト
さらに音楽教師として収入を得るようになりました。

1782年 26歳 
ウィーンで最初に成功を収めたオペラ作品は「後宮からの誘拐」KV384で、
1782年7月16日、ブルク劇場(当時の王宮劇場)で初演されました。同年のうち、
父の反対を押し切って、モーツァルトはコンスタンツェ・ウェーバーと結婚しました。

彼女は、劇場の雑役係フランツ=フリドリン・ウェーバーと
その妻マリア=セシリアの娘でした。

1782年末モーツァルトは、後年ハイドンに献呈された
6つの弦楽四重奏曲KV387、421(417b)、428(421b)、458、464、465を完成しました。

これらの作品は1785年9月1日、大作曲家ハイドンへの献辞とともに、
アルタリアから出版されました。

1783年 27歳
1年半以上ウィーンに留まった後、モーツァルトは妻のコンスタンツェを父レオポルトと
姉ナンネルに紹介するためザルツブルクへ向かいました。

ザルツブルク滞在中の1783年10月26日、サンクト・ペーター修道院付属教会で、
ハ短調ミサKV427(417a)が初演され、コンスタンツェがソプラノ・パートを歌いました。

この折、古い友情の絆が再び強められました。一家の友人で、
宮廷のコンサートマスターを務めるヨハン=ミヒャエル・ハイドンは、
バイオリンとビオラのためのデュエットを作曲するよう大司教に命じられましたが、
重病になりました。モーツァルトは数日間で、バイオリンとビオラのため
2つのデュエットKV423ト長調とKV424ロ長調を作曲、ハイドンの名で提出しました。

1784年 28歳
モーツァルトの第二子、カール=トーマスが生まれました。
2月からモーツァルトは「我が全作品の目録」と題して、
作品目録を作り始めました。この目録は、彼のもとで学ぶバーバラ・プロイヤーのための
ピアノ協奏曲変ホ長調KV449から始まっています。

4月1日、モーツァルトはブルク劇場(当時の宮廷劇場)で
最初の「音楽アカデミー」を開催しました。ここでは交響曲KV425と385、
2つのピアノ協奏曲KV450と451、ピアノ五重奏曲KV452が演奏されました。

1785年 29歳
1786年 30歳

1786年にはもっぱらオペラが作曲されました。2月7日には「劇場支配人」KV486
(会場はシェーンブルン宮殿のオランジェリー)、更に5月1日には
「フィガロの結婚」KV492(ブルク劇場)が初演されました。 
1787年 31歳
モーツァルトは妻のコンスタンツェとともにプラハに向かいました。
プラハでは「フィガロの結婚」が上演され、更に「ドン・ジョヴァンニ」KV527が
初演されました。次の旅でモーツァルトはドレスデン、マイセン、ポツダムを経由、
プロイセン王フリードリヒ=ウィルヘルムⅡ世の宮廷があるベルリンへ向かいました。

数多くの旅と社交上避けられない様々な支出のため、
モーツァルトは繰り返し友人から借金せざるを得ませんでした。

作曲家クリストフ=ウィリバルト・グルックが世を去った後、
モーツァルトは1787年12月7日の勅令によって、皇帝家の宮廷楽師に任命されました。
年収は800グルデンでした。

1788年 32歳
1789年 33歳

モーツァルトはベルリンへ旅しました。

1790年 34歳
彼は最後の2回の旅に出ました。フランクフルトでは皇帝レオポルトⅡ世の戴冠式に参列、
プラハでは9月6日に、戴冠式を記念するオペラ「皇帝ティトゥスの慈悲」KV621が
上演されました。

ウィーンに戻って間もなく、オペラ「魔笛」KV620が初演され、
モーツァルトはピアノを弾きつつ指揮しました。リブレッティストの
エマヌエル・シカネーダーはパパゲーノを歌い、
モーツァルトの義姉ヨゼファ・ホーファーが夜の女王を歌いました。

1791年 35歳
モーツァルトはウィーンのシュテファン寺院で、無給の楽長代理となりました。
6人目の息子フランツ=クサヴァー=ヴォルフガングが生まれました。

病気がちのモーツァルトは、死の予感に悩まされながら、
未完となる最後の作品「レクイエム」KV626の作曲に取り組みました。

12月5日午前0時55分、ヴォルフガング=アマデウス・モーツァルトは、
ウィーンのラウエンシュタインガッセ8番地にある自宅で世を去りました。
享年35才、死因は粟粒熱とされています。12月6日には葬儀が行われ、
ウィーンのサンクト・マルクス墓地に埋葬されました。

     
参考資料
モーツァルト生誕250周年
モーツアルトを知ろう
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

おつかれさまでした。
読まなくても、ここまでチェックした人は、すごいです。

って、それだけかい。。。
疲れきりました(苦笑い



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